開導日扇聖人


開導日扇聖人は一八一七年(文化十四年)、京都でご生誕されました。生家は代々文人の家系で、日扇聖人も九歳の頃から当時の芸術年鑑に載るくらいの天才で、書や絵画をよくされました。
また、二十五歳で公家・千種有功の屋敷で源氏物語の講義をされるなど若くして有名になっておられました。
その後学問のために江戸にのぼられ、松崎慊堂(まつざきこうどう)の門人となられました。
二十六歳のときにお母上が亡くなられ、強く無常観に打たれたことがきっかけとなり仏教に興味をもたれました。そして人生に懐疑を抱かれ、 道を求めて様々な宗教遍歴を重ねられるようになりました。
その後、ある書会が縁となってご教化をうけられ、深く法華経に帰依され入信、やがて本門八品講をつくられました。 

 

本門八品とは、法華経の後半(本門)の中でも、日蓮聖人が一番重要とされた部分で、菩薩行(人の為に我が身を投げ打つこと)が強調されています。

一八四八年(嘉永元年)、聖人はもと妙蓮寺貫首、日耀上人のもとで出家されましたが、様々な迫害を受けられ、ついに僧侶としての生活を断念されました。
なぜ迫害をうけられたかと申しますと、聖人と日耀上人は当時、葬式専門仏教に反対をしていたからです。
聖人は、葬式専門の仏教界を改革し、現実に苦悩する人々に一筋の光明を与える真の仏教者として、一生の間活躍されました。
そしてついに、一八五七年(安政四年)、本門法華宗内で本門佛立講を京都に開き、後には由緒ある宥清寺を本拠地として、時には在家(俗人)の立場で教えを弘められました。
不思議なことに、正しい教えのとおりに上行所伝の御題目を、由緒正しい御本尊の前で懸命にお唱えしますと、み仏の力によりさまざまな現証ご利益があらわれ、またたく間に信者が近畿一円に広がりました。
一八八一年(明治十四年)、日蓮聖人の六百回遠諱には、当時としては破格に一万五千人が参詣したほどです。
その後もいろいろな困難の中、信心の改良に努められ、純粋無垢なご信心を強調されました。

一八九〇年(明治二十三年)七月十七日、七十四歳をもって静かにそのご生涯を閉じられました。