門祖日隆聖人


門祖聖人は、一三八五年(至徳二年)十月十四日、越中射水郡浅井嶋村(富山県高岡市郊外)で足利氏も親類、桃井家(父・尚儀、母・益子)のご長男としてご誕生されました。幼名を長一丸といわれ、十二歳で遠成寺に入られ出家、深円と称されるようになりました。この頃から、門祖聖人のご勉学は当時の学僧をはるかに凌いでおられたようです。
 
十八歳で京都の法華宗の本山・妙本寺に入られ、日霽(にっさい)上人を師として慶林坊日立とお名前を改められ、本格的に行学(修行と学問)二道に精進されたのです。
しかし、当時の法華宗はすっかり貴族化してしまっていました。
妙本寺の跡を継いだ公家出身の月明もその例にもれず、寺の行儀は乱れ、日蓮聖人の教えも曲げられてしまう状態でした。
そこで同志とともに門祖聖人は改革運動を起こされ、再三にわたり月明を折伏されましたが聞き入れられませんでした。
門祖聖人は妙本寺をお離れになり、別にご弘通の拠点を設けられて、妙法弘通を開始されました。この頃「日立」から「日隆」とお名前を改められておられます。 

 

月明は逆恨みをして刺客を送るなど、日隆聖人はお命を狙われるようになりました。しかし、難にあうたびに現証によって命を取りとめられたのです。

そのご生涯の間、現証ご利益によってご弘通(布教)は発展しました。
当時の布教活動は、寺ごと・村ごとといったように大変スケールも大きく十四ヶ寺の建立を果たされ、さらに後進の弟子たちが教えを誤らないよう三千余帖といわれる多くの著述をされました。
一四六四年(寛政五年)二月二十五日、八十歳にて端座合掌(きちんと座られ掌を合わせた姿)のまま御題目をお唱えしながらご遷化(亡くなること)になりました。

日蓮聖人のご再誕(生まれ変わり)として、そのご精神と教えをそのまま復興されたので、特に蓮師後身、再興正導、門祖日隆大聖人 とお呼びします。
日蓮聖人から日隆聖人、日隆聖人から日扇聖人に至るまで代々の上人がとぎれることなく続いています。