沿革

開基 日彰上人時代(大正6年~)

 

遠妙寺の開基、伊達日彰上人は明治19年(1886)3月17日に福岡県にお生まれました。 15歳で得度された日彰上人は18歳のときに上京して、 佛立第四世講有日教上人の門弟となり、本所清雄寺に入寺しました。 その後東洋大学印哲科へ入学され、一般仏教を研鑚しました。

日教上人の教導を受け、いよいよ本門佛立宗の教義信条に感銘した日彰上人は、 佛立開導日扇聖人の教学の真義を極め、 その研究による『妙講一座式考』を発表されました。

日教上人がご遷化されたのち、大正6年に日彰上人に帰依する信徒の発起によりに 渋谷に仮道場が開設されました。 これが遠妙寺の創立であります。日彰上人32歳の時でした。

日彰上人は、開導日扇聖人の教えをわかりやすく解説され、 日夜、弟子・信者と共に本門佛立宗の信心を弘め、 現証利益によって人々を救われました。

その結果、現証利益によって苦悩が除かれ、また病が癒される人々も増え続け、 創立当初5組だった組は分組を重ね、 昭和9年には信徒戸数432戸を数えるようになりました。 また得度者も相次ぎ、弟子は10人を超えるようになりました。

現証利益を頂く人々の輪は東京を中心に千葉市、宇都宮市、長野県飯田市にも弘がり、 大正14年には宇都宮市に遠歓寺が、昭和6年には千葉市に妙導寺が創立されました。

昭和14年には現在地に大本堂が新築完成しました。

日彰上人は教学者としても実に偉大で今日の佛立教学の基礎を築かれ、 多数の著書を残しました。 『松華松毬』『如説修行抄の御法門』等は今も名著として知られています。 また宗務総理等、宗門の要職を歴任され、 一宗独立等の宗門重要問題に関与し尽力されました。

自坊と宗門のご奉公に東奔西走されるなか、昭和16年3月8日にご遷化されました。

 

 

 

第二世 日陽上人時代 (昭和16年~ ) 

 

開基日彰上人の遺言により、第2世住職は所日陽上人が継承されました。 日陽上人は若き日、メッキ工場に勤務していましたが、 その当時難病であった肺結核におかされ苦しんでいたところ、 本門佛立宗の信心を勧められ、入信されました。 そしてお助行を頂いたところ、病気も快方に向かうという現証利益を頂きました。

その事がきっかけとなり、大正12年に得度され日彰上人の弟子となられました。

日陽上人は、温顔、微笑の反面、ご利益を頂かせるためには厳しい指導をされ、 お助行やお折伏を熱心になさいました。 伝染病の人々には、伝染をも恐れず病人の枕元で不動の信念でお助行され、 現証利益を頂かせるためには長時間のお看経も厭いませんでした。

日陽上人は日彰上人亡き後の遠妙寺を守り、寺院規則の整備をし、 寺号公称の準備を進め、昭和十八年にはついに遠妙寺号が認可されました。

 昭和二十年、第二次世界大戦は熾裂を極め本土空襲は激化し 本堂も全焼してしまいましたが、御本尊、御尊像はお護りして無事でした。 戦禍の傷痕も生々しい昭和二十一年日陽上人は仮道場を建立し再建の礎を築き、 昭和23年には引退をなされました。

引退後、晩年は千葉妙導寺に在住して信徒を教導され、 昭和40年7月15日にご遷化されました。

 

 

第三世 日玄上人時代

 

遠妙寺の中興、第三世日玄上人は明治40年(1907)7月12日に 金沢市にお生まれになりました
若くして両親を亡くした日玄上人は、本門佛立宗の信者であった 叔父の紹介により九州弘通の祖、宮川日厚上人に出会い、

「信仰の大切なこと、親がなければ仏に仕えることの大切なこと」 などを慈愛深く諭され、そのことが縁となり伊達日彰上人のもとで修行することになり、 遠妙寺から早稲田中学に通学されました。

日玄上人は中学卒業を機に
「自分は年少で親を失っている。その回向は誰がするのか。 自分の生涯は信心に打ち込んで、ここで生涯の方針を決定すべきではないか。 開導聖人の教えに従おう。伊達御導師にお仕えして道を学びたい。 不完全で不運な自分を救っていただくには他に方法はない」
と得度を決意され日彰上人の弟子となられました。大正15年18歳の時でした。

立正大学宗教科にて一般仏教や日蓮教学を研鑚した日玄上人は卒業後、 遠妙寺を離れ、各地を遊学されていましたが、 昭和23年、二世日陽上人の引退に伴い遠妙寺第三世住職となられました。

この時、戦災により焼失した本堂の再建とご弘通の発展を誓願した日玄上人は、 日夜に一軒一軒のお宅へ伺い御講を奉修され御法門を説かれ、 本門佛立宗のご信心の尊いこと、 そしてこのご信心によって他人を救う菩薩行が大切なことを説かれ、また病人や願いごとのある人があれば家に出向き、お助行をして、現証利益で人々を救われました。

昭和31年には戦前の本堂同様に美しく古風な落ち着いた作りの本堂が完成し、 本堂内陣のご荘厳も整った昭和33年11月に開延式が奉修されました。

この頃には戦災により失われた教勢を取り戻し、復興発展を遂げました。

その後昭和56年には高祖日蓮大菩薩七百回御遠諱報恩記念事業として、 鉄筋コンクリート造りによる新遠妙寺が新築竣工し、 教勢も戦前を上回る規模となり、昭和61年には日覚上人に住職位を継承されました。 

日玄上人はご遷化になる前日まで御講を奉修され御法門を説かれ、 弟子、信者に「唱え死に」の範を示されました。

遠妙寺を中興された日玄上人は昭和63年1月15日ご遷化されました。

 

 

第四世 教淳大徳

 

教淳大徳は開基、伊達日彰上人の子息として誕生。 幼少の頃より神童ぶりを発揮し、俊才として将来を嘱望されていました。
中学1年の時、大阪・清風寺住職で本宗中興とうたわれる第七世講有・日淳上人の 御弟子として得度、修行に励みました。 しかし若くして亡くなったため、現住職はその仏果菩提を念じ事務局および 責任役員にはかり第四世として加歴(歴代住職に加える)することとなりました。

 

 

 

第五世 日覚上人【現住職】(昭和61年~ )

        
        ― 現住職の信条 ―

1.世界の諸宗教の数あるカノン(聖典)の中でも最高位にある法華経(ほけきょう) こそ世に弘められるべきである。 人が真の意味で尊厳性を保つことができるのは宗教心があるからである。 しかし何でも信ずればよいと言うのではない。 ブッダ釈尊が「もっともこれ第一」とされた本門法華経(ほんもんほけきょう)普及のために、一生をかけて他の教務(僧侶)や信徒とともに精進する。

2.日蓮聖人が唱えられていたごとく本門八品所顕上行所伝本因下種 (ほんもんはっぽんしょけん・じょうぎょうしょでん・ほんにんげしゅ)の 南無妙法蓮華経と唱える御題目の功徳を知らぬ人があまりにも多い。 御題目をすすめて心と身体のご利益をいただく人が増えるよう行ずる。

3.深遠な仏教の哲理、特に法華経(ほけきょう)本門八品(ほんもんはっぽん) の教えにもとづく奥深い教理にふれることなく迷っている人が無量にいる。 ブッダ(釈尊)から日蓮聖人、そして門祖日隆聖人、 そして開導日扇聖人へと受け継がれてきた実践的仏教学を究明して、 これを多くに人に分かりやすく伝えたい。

4.仏教はたくさんの宗派に分かれ、日蓮聖人を宗祖とする門流(流派)も何十派とある。 小川もやがては集まって大河となり、大海に注ぎ込む。 いずれは仏教諸宗諸派を統合し等しくブッダ釈尊のもとに一つになるよう全力を尽くす。

5.仏教の目的もあらゆる宗教の目的も、もろびとの幸せである。 世の人々の福祉が向上し、世界の平和が実現できるよう行動する仏教者となろう。 視野は広く、希望は大きく、しかし足もとを見つめて、できることから、 小さなことでも人のためになる良いことをともに実践する菩薩となろう。

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