無事出産、手術成功の現証ご利益

 
                           遠歓寺所属 寺本和行

 

 私は、宇都宮遠歓寺所属の信徒でございます。
私の両親も佛立宗の信者で法灯相続し、私の兄弟(兄二人、妹一人)もそれぞれ独立して所帯を持ち、ご信心をさせていただいております。中でも、次兄は本寺の東京遠妙寺で得度、現在は遠歓寺の住職としてご奉公させていただいております。
私達、兄弟四人は小さい頃、病気がちでした。母は実家からの法灯相続で一応ご信心はしていましたが、病気がちの私達のこともあり、なおさら、一生懸命ご信心させていただくようになりました。父もそういう母の姿を見て、自然にご信心にとけ込み、私たちも何の抵抗もなくお寺や御講に参詣したり、御会式などでご奉公させていただくようになりました。そのうち建営や責任役員、布教区関係のご奉公を先住、柴田御導師より仰せつかり、本寺の木村御導師の命により事務局長のご奉公をさせていただきました。
常々、母は私たちが結婚するときには、「ご信心をしている人」、また、「ご信心ができる人」を選ぶようにといっていました。私は医療技師として病院関係の仕事をしていますが、看護婦であった妻とはその縁で知り合いました。お付き合いしているうちに時が熟して、いつしか結婚式を挙げる運びとなりました。そこで、一緒になる以上、ご信心をさせていただくようにと話をいたしますと、素直に「ご信心を始めさせていただきます。」とのことでしたので、結婚しました。私が二十四才のときです。その後、お寺や御講にお参りしたり東京の本寺にもよくお参詣させていただきました。
まもなく、長男出産、翌々年には、長女を出産、そして二十八才のときには、マイホームも購入でき、人並み以上に幸せな日々が続きました。
 そのうち、私自身もそうだったのかもしれませんが、このような日々が続きますと「御宝前のおかげで」ということを忘れ、妻は「なにも、ご信心などしなくても幸せな人生が送られるのではないか」と思い、考え違いをしたらしく、少しずつご信心が疎かになりご奉公からも離れるようになったのです。
ところが、そのことに気がつき目が覚まされるようなことがあったのです。
それは、次女の出産のときのことです。当時、妻は妊娠八ヵ月の体でしたが、子供二人を幼稚園に送った後、病院より各家庭への訪問看護婦として働いていました。およそ自宅より一時間の距離のところへ通っていました。
二月二十二日のことです。いつもどおり子供たちを幼稚園に登園させ、自分も病院に行ったとき、体の調子があまりよくありませんので、自分で血圧を計ったところ「そんなはずはない」というような数値でした。同僚の看護婦さんに計ってもらいますと、やはり最高が二〇〇を越え最低も一〇〇を越えていました。以前から手足がむくんでいたので産婦人科の先生に相談いたしましたが、「何ともない」と言われていました。とはいうものの、本人はその頃から心配していたそうです。血圧がニ〇〇を越えているので同僚の看護婦さんが慌てて産婦人科の先生に電話をして、現在の状態を話しますと「至急、済生会宇都宮病院に入院するように」との指示があり、救急車で運ばれました。
そのとき、私は埼玉県に出張をしていました。出張先に緊急連絡が入り「至急病院に来てください」とのことでしたので、仕事は他の人に任せ、取り急ぎ妻のいる病院へ向かいました。
先生よりお話を伺いますと妊娠中毒症との診断でした。血圧がかなり高いので血圧を下げる薬を点滴しているとのことです。「このまま血圧が下がらなければ、手術をしなくてはならないが、この病院のベッドの状況は、母親用のベッドは空いているが新生児のベッドは満床」とのことです。できれば、母子ともに入院できる病院へ転院できるようにと他の病院へ先生が当たってくれたのですが、どの病院もいっぱいで困っているのとのことでした。少しようすを見て、最悪の場合、母親はこの病院で子供は近くの大学病院へ移すとのことです。
そのような話をお聞きしてから妻のいるベッドへ向かいました。ちょうど妻は点滴をしているところでした。その傍らで私の妹がお看経をしていてくれました。お寺へも連絡が届き、お助行を頂いているとのことでした。その後、有難いことにお助行のお陰で少し血圧が下がり、最高一六〇くらいと落ち着いてきました。先生から「もう少しようすを見てみましょう」と言われました。私も幼稚園へ行っている子供二人のことが気になり、ひとまず家に戻ることになりました。緊急のときは自宅に連絡するとのことでした。

 一晩明けて、私は子供二人を連れて七時頃、朝参詣をして幼稚園へ八時に送り、その足で妻のいる病院へ向かったときのことです。ポケットベルが鳴りました。用件は、「手術をするので至急病院へ」とのことです。自宅よりお寺、そして幼稚園へ回ったためか、かなり長時間、連絡がつかなくて病院でも大変困っていたのです。そのとき、私は「なぜ信心をしているのに、こんなことになるのか」と思いました。それでも心で御題目を唱えながら病院へ急いで向かいました。病院へは九時を少し回った頃、到着しました。先生にお会いしますと「血圧も高いし、子供も非常に危険な状態なので至急、手術が必要である」との話でした。手術の準備も済んでおり手術同意書へ私のサインを待っていたのです。手術後、母親はこの病院で入院、子供はこの病院より車で約三十分くらいの所にある独協医大へ送るということも決まっていました。さて、同意書にサインをして手続きを済ませつつ、私の頭の中は、「これからいったい、私はどうしたらよいのか」と、不安な気持ちでいました。
その時です。先生から「独協医大に母子ともに入院できる、ベッドが空いた」との話がありました。すでに先生は手術の準備を整えていたのですが、「やはり母子ともに大学病院へ行った方がよい」と言われ、救急車で先生も一緒に行ってくれました。このとき、私は病院へ行くのは遅くなりましたが、やはりお寺へお参詣をしてよかったと思い直しました。まず、ここで一つご利益を頂いたのです。
その後、大学病院へ到着し診察をしたところ、少しようすを見てからとのことです。八ヵ月で出産するよりは、一日でも長くお腹の中に子供もいた方が良いとのことでした。しかし、やはり状態がよくないので、その日の午後七時に帝王切開の手術となりました。手術中は、お寺で玄秀師をはじめ家族やご信者のお助行を頂いていました。私も手術中は、御題目を唱えながら手術が終わるのを待っていました。午後八時三十分に無事に手術が終わり、エレベーターの前でイスに座っている私の前を、看護婦さんが生まれたばかりの赤ん坊に人工呼吸をしながら、「おめでとうございます。女のお子さんです。」と言いながら通りすぎていきました。
生まれたのは女の子で体重が九八五gの超未熟児でした。生まれたときは「仮死産」といいまして、自分の力では呼吸できなかったのです。先生よりお話があり、「まずは自分の力で呼吸ができる治療をする。また心臓の動脈管が広がっているのでその治療も併せて行う。」とのことでした。また、生まれたばかりの子供は、未熟児病棟で保育器に入れて人工呼吸、点滴をしながら治療するとのことでした。
先生の説明が終わり初めて見た子供は、極めて小さく、私が見ても痛々しく涙が出るくらいでした。妻はその後三十分位で手術室から病室に戻ってきました。少し意識が戻り、妻は「女の子でオギャーと泣いたのよ」と言いました。けれども子供は「仮死産」なので、実はオギャーとは泣けないのです。でも、妻にはそう聞こえたそうです。
次の日、妻は傷の痛みのほとんどなく、ずいぶん体の回復もいいとのことでひと安心でした。一方、赤ちゃんの状態について未熟児病棟の先生からまた説明があるとのことです。先生に呼ばれ「呼吸はずいぶん良く心臓のほうも良く発育しているが、脳室内に出血がある。もしかすると後遺症も残るかもしれない」とのことでした。
「生まれてきた子は、これから先どうなるのか、これは何とか御宝前にお計らいを頂かなくては」と思い、その話を玄秀師にいたしました。玄秀師は「少しでもよいからお寺に来て、お看経をあげなさい。家内には、お寺の御宝前様の御天目のお下がりをいただかせ、子供には懐中御本尊を受けて、病院へお供するように」とのことでした。そして次の日より妻の看病中、少しでも御題目をあげようと、子供を幼稚園に送る前にお寺に連れながら、参詣をさせていただきました。
私の仕事の内容を少し具体的に申しますと、バスで巡回して健康診断を行っているのです。この二月という時期はどちらかといいますと暇なのですが、それでも健康診断のある日は、会社に六時までには出勤しなくてはならないのです。お寺参詣をさせていただくとなりますと、遅くとも五時十五分位派には家を出なくてはなりません。そこを何とかさせていただこうと思い、決定してお参詣させていただきました。
そうしますと、子供の出血も少しずつ止まってきました。妻は手術後二日位から立って歩けるほどでした。先生から「手術後、二日くらいになれば歩く練習ができますよ」と言われたのでそのつもりで歩いてみたところ、傷もほとんど痛まず、平気で歩いていましたら先生が「もう(痛まないのか、平気で)歩けるの」とびっくりしていたそうです。妻と同様に帝王切開した患者さんでも、術後一週間経過した人でさえ、やっとどうにか歩けるという人もいました。妻は入院から数えて十三日目に退院となりました。また、超未熟児の子供の成長も早く五月十八日には退院の運びとなり、脳の出血は、ほぼ良くなったので、これからは定期的に検査だけはしてみましょうとのことでした。
 これはやはり御宝前のお計らい以外の何ものでもないと思いました。
あとから分かったのですが、その他にもご利益を頂いていたのです。
まず、この大学病院は以前に妻が勤務をしていた病院で看護学生時代の同級生が偶然にもこの病棟で働いておりました。また、済生会病院からベッドがないかとの連絡を受けた看護婦さんも実は、同級生だったのです。しかし、救急車で運び込まれるまでは、まさか入院の当事者が同級生であるとは思いもよらず、妻を見てその看護婦さんはとても驚いたそうです。そして、ほんとうに不思議な気持ちになったとのことです。それと申しますのも、その看護婦さんは、妻の最初の入院申し込みが済生会病院からはいったときは、「ベッドが満床で母子ともには受け入れはできません。」といったんは断ったのです。が、次の日にはどういうわけか、「なにがなんでも、ベッドを空けなくては」と思ったそうです。そこで、手術後、間もない患者さんに対して、手術後の経過が良いからと無理にお願いして退院をしてもらい、妻が最初に運び込まれた済生会病院に連絡をしたのです。そのときは、まったくその患者が自分と同級生の私の妻であろうとは、知る由もなかったのです。
次に、手術を担当していただいた産婦人科の先生には「出産時に出てきた胎盤がかなり小さいので、これで妊娠中毒症がなくても、正常には出産できなかったかもしれませんね。」といわれました。また、「逆に妊娠中毒症になって子供が身の危険を知らせてくれたのかもしれませんね。」とも仰りました。

 このように実に、気がつかないうちに有難いご利益を頂いていたのです。
最後になりましたが、私は法灯相続でご信心を親からなんとなく受け継ぎ、妻は結婚以前はまったく信心していなかっのです。それが一家を構えて御宝前をお迎えしてまがりなりにもご信心をさせていただくようになりました。実際は、そのおかげを頂き、良いことばかり続いていた私たちは、それがいつしか当たり前だと思い違いをして「御宝前のお陰で」ということを忘れていたのです。妻は本当にご利益なんてあるのかなあと思っていたということで、いわば半信半疑でした。しかし、このようなことが実際に起こり「まったく理屈では割り切れないことがあるのだなあ」と思うようになり「不思議」という三文字が目にに焼き付き、心に残るとのことです。
次女はもう、一歳の誕生日を無事に迎えて、すこぶる順調に成長しており家族共々心から喜んでいる次第です。
こんなことがあり私たちもやっと本当の一信者となったような気持ちになりました。そして、今さらながら父母がご信心に一生懸命になった気持ちもあらためて理解できるようになりました。私たちは両親から頂いたこのご信心をまた私の子供にも相続させることができますよう、なおいっそう信行ご奉公に頑張らさせていただきます。